本文へスキップ

俳句の作り方、歴史、俳人を探求。日本俳句研究会

俳人列伝

松尾芭蕉

 俳句にまったく興味がない人でも、日本人であれば、その名前くらいは知っている俳聖の称号を持つ世界的に有名な俳人です。
 俳句を現在の形に完成させた人であり、俳句を学ぶのであれば、松尾芭蕉を最大の手本とすることと言われます。

 松尾芭蕉は、家が貧しく、次男であったため、29歳の時、俳諧師(職業俳人)になることを夢見てく江戸に出ました。
 もちろん、何の実績もない地方出身者が、いきなり俳句で食べていくことなどできないので、日本橋大舟町の名主であった小沢太郎兵衛の元で事務員として働くことにします。
 彼の実務能力は非常に高かったようで、やがて神田上水道のメンテナンス作業監督といった大仕事を請け負うようになります。

 仕事をこなしながらも、俳諧師としての実力と地位もメキメキと向上させ、延宝6年頃(1678年)35歳の時に、俳句の師匠となりました。その二年後には、門人二十人の歌仙を集めた本『桃青門弟独吟二十歌仙』を出版します。
 桃青とは、芭蕉の別号です。
 この年の冬、芭蕉は水道メンテナンスの仕事を辞めて、深川に移り住みます。

 その後、46歳の春、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払い、愛弟子の河合曾良ただ一人を連れて「奥の細道」の旅に出ます。
 これは江戸から奥州(東北地方)へと赴き、松島や平泉を通った後、西に向かい岐阜に至るという、日数150日、旅程600里に及ぶ大旅行でした。

 彼は非常に人気者となりましたが、無理がたたって病気となり、大阪で亡くなりました。享年51歳です。
 「私の亡骸は木曽塚(義仲寺)に葬ってもらいたい」と遺言し、琵琶湖湖畔にある義仲寺が墓所となりました。
 芭蕉はここがとても気に入って貞享年間(1684~8年、芭蕉が41~45歳くらい)のころ、宿舎としてたびたび訪れていました。
 義仲寺は、源平合戦の時代、源範頼、義経と戦って討ち死にした木曾義仲を、その側室である巴御前が庵を結んで弔った場所です。
 境内の中央に義仲の墓があり、その右隣に芭蕉の墓があります。墓石に「芭蕉翁」の文字が刻まれています。 

 芭蕉は木曾義仲に何か思い入れがあったようで、、

 義仲の寝覚めの山か月悲し

 という句も詠んでいます。

個人データ

出自・家族構成
 寛永21年(1644年)、天下分け目の関ヶ原の戦いから44年たち、徳川の世が安定したころに、芭蕉は生まれました。
 場所は、伊賀国上野の赤坂(現在の三重県伊賀市上野赤坂)で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生を受けました。二人男の子、四人女の子の六人兄妹であったそうです。
 姉が一人、妹が三人いたということですが、芭蕉の兄妹については、記録が少なく、名前がわかっているのは、兄の「半左衛門命清(はんざえもんのりきよ」、一番下の妹「およし」しかいません。
 芭蕉は死の直前の10月10日に兄に対して、遺書を残しています。
 この遺書「松尾半左衛門宛遺言状」は上野市の芭蕉記念館に保存されています。

内縁の妻(妾)
 松尾芭蕉は生涯未婚でしたが、内縁の妻とされている人がいます。
 寿貞 (じゅてい)と呼ばれる人です。
 彼女は桃印という芭蕉の甥っ子と夫婦で、その間に、一男二女を残しています。一説によると、そのうちの男の子、次郎兵衛は芭蕉の子だったのではないかと言われています。
 なにやら、複雑な恋愛関係があったようにも思えますが、芭蕉は桃印を引き取って養うなど、彼に対しても並ならぬ愛情を注いでいたようです。

没年
 元禄7年(1694年)、10月12日に大阪の花屋仁左衛門の奥座敷で生涯を閉じました。
 死因は、きのこを食べたことによる食中毒であった、赤痢にかかったなど、諸説言われていますが、ハッキリしません。
 ただ、旅の途中に体調を崩し、何からの病気になったのは確かなようです。
 死の直前の10月8日に、

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 という辞世の句を残しています。
 芭蕉の命日は、「時雨忌」と呼ばれます。
 これは彼が、時雨が好きで時雨の句をたくさん作っていたこと、10月の別名が「時雨月」であることに由来します。

名前・俳号
 芭蕉というのは俳号(ペンネーム)で、実名は宗房(むねふさ)と言います。松尾宗房が本名です。
 幼名は、金作と言いました。
 最初の俳号は、宗房を音読みした宗房(そうぼう)としていました。
 その後、江戸に出てから、桃青(とうせい)と俳号を変えました。
 さに、深川に住居を構えるようになった後、門人が庭に芭蕉の株を植えたところ、この木が大いに茂ったことから、この家は「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、俳号も芭蕉に変えたといういきさつがあります。

俗説
 芭蕉は忍者のメッカ、伊賀の出身だったこと、生まれた家が姓を名乗ることを許されていたことから、忍者だったのではないかという説があります。伊賀の上級忍者には姓を名乗れる身分の者もいました。
 このため、幕府が公認した密偵で、仙台藩を探っていたのではないか、という俗説が生まれました。
 また、妻帯しなかったことから、同性愛者ではなかったとも言われていますが、これを裏付ける資料はありません。

作句数
 芭蕉の句だと確認される物は、982句あります。
 彼の句の可能性があるけれど、確かな裏付けが無い句が数百あり、生涯に残した句は、1000~1500くらいではないかと考えられます。

女性関係

一つ家に遊女も寝たり萩と月

 という句が奥の細道に残されています。
 解釈として、そのまんまの意味で、芭蕉が遊女と寝たことを示していると言われています。
 生涯独身であった芭蕉ですが、意外と俗っぽいところもあったようです。