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俳句の作り方、歴史、俳人を探求。日本俳句研究会

俳人列伝

正岡子規

 正岡子規は明治時代を代表する俳人で、俳句の革新を成し遂げたことで有名な人です。松尾芭蕉と並んで、俳聖の称号で呼ばれることもあります。
 彼の大きな功績は、以下の三つです。

1・俳諧から発句を独立させて、俳句という呼び名を与えたこと。
2・江戸時代以来の陳腐な俳句を、月並み俳句と呼んで否定し、写生による現実密着型の俳句を確立させたこと。
3・松尾芭蕉の神格化の否定と、与謝蕪村の再評価。

 正岡子規にとって俳句は、自由で多様性に溢れた物であったのですが、明治時代の俳壇では、松尾芭蕉が神格化されていた悪影響から、陳腐でツマラナイ月並み俳句ばかりが作られていました。
 このことに危機感を抱いた子規は、与謝蕪村を芭蕉の対抗馬としてあてがい、蕪村は人にはあまり知れていないが、芭蕉に優る価値があると評価しました。
 彼は新聞『日本』の記者であり、この中で俳句に関する記事を連載したために、非常に大きな影響を人々に与えることができました。

 子規は、明治維新の前年に下級武士の子供として生まれました。
 父親が早くに死んでしまったため、母方の祖父から漢書の素読を習いました。
 学校に入学してからは、漢詩を作ったり、絵を習ったり、軍談を聞いたりもしました。また自由民権運動にも興味を示して、政談にも熱中しました。
 16歳の時に中学校を中退して上京し、受験勉強を一年した末に東大予備門に入学しました。このころから、子規は俳句を作るようになります。

 ここで子規は、夏目漱石と知り合い、友人となります。
 漱石は子規のことを、
「ぼくはきみを、ぼくの友人のなかでもすぐれた考えをもち、自分の力で人生をきりひらいていく人だと信じている」
 と高く評価しています。

 その後、23歳にして彼は結核にかかってしまい、吐血します。また、この頃から、俳句や漢詩を作る会を結成して、その中心的な人物となっていき、俳号・子規を名乗るようになりました。
 文学に興味を持ち始めた子規は、最初は哲学を志して帝国大学哲学科に進学したものの、その翌年には国文科に移ります。
 国文科に入った子規は、小説にも興味を示して『月の都』という小説を執筆して、尊敬する作家の幸田露伴(こうだろはん)に見てもらいますが、良い評価が得られず、小説家の道には挫折します。

 子規は25歳で大学を中退し、日本新聞社に入社して、新聞記者となりました。その翌年から、「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を始めました。
 28歳の時に、根岸(東京都台東区)に移り、故郷、松山より母と妹を呼び寄せました。この新居は子規庵と呼ばれ、多くの友人、門弟が集まり、句会歌会の場として賑わいました。
 この地名から、子規一門を「根岸派と呼ぶようになりました。

 しかし、日清戦争を取材してから、子規の結核は悪化し、歩くこともできない身体になってしまいました。

 その後は、詩の世界に専念することとなり、1897年(明治30年)に俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)を創刊します。
 ホトトギスでは、夏目漱石の『坊っちゃん』『吾輩は猫である』が発表されるなどして話題を呼び、大正、昭和初期において、俳壇の中心的な雑誌として、隆盛を誇ります。

 夏目漱石と子規とは生涯の親友で、イギリスに留学した漱石は、闘病生活を続ける子規を慰めるために、ロンドンでの暮らしについて語った手紙を送っています。子規はこれを非常に喜んで『倫敦消息』という題名を付けて、ホトトギスに掲載しました。

 子規は、病床の身でありながら、根岸短歌会を主催して短歌の革新にも努めました。しかし、その身体は日に日に弱っていき、死の1年前の1901年、ロンドンで英文学の勉強を続ける夏目漱石に
「ぼくはもうだめになってしまった。毎日わけもなく号泣しているような次第だ。……ぼくはとても君に再会することはできないと思う。……じつはぼくは生きているのが苦しいのだ」
 という自らの悲痛な心境を綴った手紙を送っています。
 そして、34歳の若さで、漱石に再会することなく、この世を去りました。

個人データ

出自・家族構成
 1867年10月14日、伊予(愛媛県)の松山藩士、正岡隼太の長男として生まれます。この翌年に明治維新が起りました。
 子規の父親は明治五年に亡くなってしまい、彼は幼くして家督を継ぎます。
 母方の祖父である大原観山は、藩校・明教館の教授であったこともあり、明治維新後は、私塾を開いて、孫の子規に漢文を教えました。
 子規は生涯未婚で、子供がいませんでしたが、律(りつ)という妹がおり、子規の門弟を中心とする子規庵保存会の初代会長となっています。

職業・仕事
 新聞「日本」の新聞記者でした。
 このため子規の一派は「日本派」とも呼ばれました。
 彼は、「日本」に獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)という俳論について語った記事を連載して、俳句革新運動をはじめました。
 獺祭とは、カワウソが捕らえた魚を並べてから食べる習性のことです。中国の大詩人である李商隠は、カワウソのように書物を自分の周りに広げながら詩を作ったため、自らを「獺祭魚」と呼びました。
 子規は、李商隠のように机の周りに書物を散らかしておくのが好きで、これにちなんで李商隠のような詩人たらんとして、このような名前をつけたようです。 

没年
 1902年(明治35年)9月19日)に34歳の若さで、結核のために亡くなりました。当時、結核は不治の病とされており、彼は23歳の頃から、結核にかかって、吐血をしていたようです。
 子規の結核は、日清戦争に記者として従軍した際に大きく悪化し、帰国する際に船の中で血を吐いて倒れ、その後、自力で歩くこともできない身体になっています。
 子規の命日は獺祭忌とも呼ばれます。これは彼が「獺祭書屋主人」という俳号も用いていたからです。

野球の普及に貢献
 子規は結核で倒れる前まで、当時日本に輸入されたばかりの野球に夢中になっていました。

 草茂みベースボールの道白し

 といった野球に関する句を残しています。
 「直球」「四球」「飛球」「打者」「走者」といった訳語を作ったのは子規ではないかとも言われています。野球の普及に貢献したとして、没後百年経った2002年には野球殿堂入りを果たしています。

名前・俳号
 本名は正岡常規(まさおかつねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)と言います。
 1889年(明治22年)5月に喀血をしてから、「子規」という俳号を名乗りしました。子規とはホトトギスの別名です。
 子規の俳号は数多く54種類もありました。

苦手な物
 英語が苦手だったと言われています。
 また、整理整頓も苦手で、部屋の中を書物で散らかしていたようです。