与謝蕪村は松尾芭蕉と双璧を成すと言われているほど、評価の高い江戸時代の俳人です。
画家としても有名で池大雅と共に、日本の文人画(南画)の大成者とされています。彼の本業は画家であり、絵を売って、妻と娘の三人の生活を支えていましたが、その生活は楽ではなく、絵を描くことに追われることもあったようです。
その作風は描写的でありますが、句の風景は現実をそのまま書き表すというより、理想化された空想世界的なものです。
五月雨や大河を前に家二軒
(さみだれや たいがをまえに いえにけん)
これは蕪村が62歳の時に作った有名な作品です。
五月雨が降り続いて勢いを増した川が流れている。そのほとりに家が二軒、ぽつりと建っているよ、という意味です。
明治を代表する俳人・正岡子規は、新聞『日本』の文芸欄で松尾芭蕉の名句「五月雨をあつめて早し最上川」とこの句を比べて、蕪村の方が優るとして人々に衝撃を与えました。
正岡子規に言わせると、芭蕉の句は技巧的にうますぎて、おもしろくないのだそうです。
明治に至るまでは、松尾芭蕉の方が圧倒的に知名度が高かったですが、正岡子規が芭蕉が神格化されているのに危機感を持ち、「蕪村だって、すごいんだぞ!」とその功績を讃えたことから、よく知られるようになりました。
正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えた人物です。
与謝蕪村は、享保元年(1716年)摂津の毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれました。
家は、村の有力者であったそうです。
ただ、十代の頃に父と母を亡くし、家を失って、20歳で江戸に出ました。
その二年後、江戸で、夜半亭巴人(やはんていはじん)という俳人に弟子入りします。巴人は、松尾芭蕉の高弟、宝井其角(たからいきかく)と服部嵐雪(はっとりらんせつ)から俳諧(俳句)を学んだ人で、このためか蕪村は芭蕉を尊敬していました。
27歳の時に、師匠の巴人が亡くなります。
その後、蕪村は江戸を出て、茨城県結城市(下総結城)に住む同じ巴人の弟子の元に身を寄せます。
それから、十年もの間、東北地方、関東地方を旅して周り、絵や俳句を作って過ごしました。芭蕉の旅した「奥の細道」を歩いたりもしました。
36歳になると、京に上りました。
東山の麓に居を構えて、そこに定住するかと思いきや、三年後に、宮津に赴き、画題となる自然の豊かな地で、絵を描き続けました。
その後、香川県(讃岐)なども遊興し、45歳で結婚すると、それ以後は、京に住み続けることになります。
蕪村、炭太祇(たんたいぎ)、黒柳召波(くろやなぎしょうは)らは、三菓社という俳句結社を作り、俳句作りに励みました。
その後、55歳で、師匠の名である夜半亭を継承します。
画家としても俳人としても蕪村は有名になり、彼の主催する発句会には多くの人が集まるようになりました。
この頃、俳諧(俳句)の世界は、独創性を失って行き詰まっており、蕪村は松尾芭蕉を祖とする蕉風の流派を復興させようと、旗印を振りました。
68歳の時、持病が悪化し、妻子や弟子たちの必死の看病にも関わらず、この世を去りました。
出自
享保元年(1716年)摂津の毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれました。彼の少年時代のことはよくわかっていないのですが、一説によると村長の家の子供であったそうです。
家族
十代の頃に両親を亡くしました。
45歳頃に妻ともと結婚し、娘のくのをもうけています。
没年
1784年1月17日に京都の自宅で68歳で亡くなりました。死因は心筋梗塞であったようです。
死の前日、蕪村は弟子の松村月渓(まつむらげっけい)を呼び、三つ句を残しています。その中の一つ、
冬鶯むかし王維が垣根かな
(ふゆうぐいす むかしおういが かきねかな)
という句の中に出てる王維とは、中国唐代の詩人であると同時に「文人画(南画)」の始祖です。
蕪村は、俳人としても有名ですが、文人画を描いて生計を立てていた人であり、先人の王維のことを尊敬していたようです。
この句は、王維が隠居した別荘の垣根にウグイスがとまっていた、という意味です。
詩と絵に人生を捧げた蕪村の生涯を象徴するような句です。
名前・俳号
本名は谷口信章と言います。
29歳の時、俳号・蕪村を名乗ります。これは中国の詩人、陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると言われています。42歳で結婚したあたりから、与謝を名字として名乗ります。他に俳号として「宰鳥」「夜半亭」があります。
尊敬する人物
蕪村は松尾芭蕉を尊敬し、目標としていました。
彼が60歳の時にに編纂した『芭蕉翁附合集』(ばしょうおうつけいあしゅう)の序文で、
はいかいの継句をまなばんには、まづ蕉翁の句を暗記し、付三句のはこびをかうがへしるべし。三日翁の句を唱えざれば、口むらばを生ずべし
と述べています。
俳句を学ぶには芭蕉の句を暗記しなさい。
芭蕉の句を三日間口にしないと、口の中にイバラが生えるよな気分になるという意味です。
女性関係
蕪村は64歳の頃、妻子のいる身で、京都の祇園の美人芸者、小糸に夢中になってしまったそうです。友人の忠告で彼女と別れることにしたのですが、それを残念に思って、
桃尻の光りけふとき蛍哉
という句を詠んでいます。
蛍が尻を光らせて去るのを寂しく思う、という意味で、小糸への思いを重ねたものです。