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俳句の作り方、歴史、俳人を探求。日本俳句研究会

俳人列伝

小林一茶

 小林一茶(こばやしいっさ)の俳句は、雀やカエル、子供など、力の弱い小さい者への愛情を表したものが多いのが特徴です。

 俳句には一読しただけでは意味がわからない難解なものもありますが、一茶の句はわかりやすく親しみやすいです。この独自の俳風は「一茶調」と呼ばれます。
 また、彼は二万句という非常にたくさんの句を残しています。松尾芭蕉が約千句であることと比べると、いかに多作であったかわかります。

 一茶は、宝暦13年(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(長野県上水内郡信濃町大字柏原)の農家に生まれました。本名を小林弥太郎と言います。
 彼は、不運にも三歳の時に母を亡くしました。
 その後、父が再婚して継母に弟が生まれると、継母とうまくいかなくなり、長男であるにも関わらず15歳の春に江戸に出て行きました。

我と来て遊べや親のない雀
(われてときて あそべやおやの ないすずめ)

 この句は、一茶が子供の頃の寂しさを思い出して作った句です。

 継母との反目は弟との間にも溝をつくり、これが一茶を生涯苦しめることになります。 

 江戸に出た一茶は、あちこちの奉公先を転々として、貧しい生活を送りました。
 その中で、いつしか俳諧(俳句)に親しむようになり、二十五歳の頃には、二六庵竹阿(にろくあんちくあ)という山口素堂(やまぐちそどう)を祖とする葛飾派俳人の門人となっていました。
 その後、28歳の時に竹阿が亡くなると、葛飾派の本流である溝口素丸(みぞぐちそまる)に入門しました。

 29歳の夏に、父の病気見舞いのため、14年ぶりに故郷に帰り、その旅の記録である「寛政三年紀行」を書きました。この巻頭で

「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕にハ武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。」

 と書いています。
 自分はさすらいの身で、茶の泡のように消えやすい者だから、一茶と名乗ったという意味です。
 彼は、用事を済ませると、家に居づらいので、ほどなく江戸にも戻ります。

 30歳の春に、関西、中国、九州地方を巡る六年間の旅に出て、松尾芭蕉のように旅先でたくさんの句を作りました。

初夢に古郷を見て涙かな
(はつゆめに ふるさとをみて なみだかな)

 これは、旅の途中、新年の初夢にふるさとを見て、なつかしくて涙が出たという意味の句です。
 家を飛び出した一茶ですが、望郷の思いは常に続いていたようです。
 そのため、39歳の春に帰郷します。

 すると、タイミングを計っていたようにその一月後に父が病気にかかり、一茶は必死に看病するものの、彼は一月あまりで亡くなってしまいます。
 父は、死ぬ前に、弟に財産を一茶と半分に分けるように遺言を残します。
 弟もこれを承諾したのですが、自分たちが築いた財産を兄に渡すのは嫌だったらしく、一茶は財産をもらえぬままに江戸に帰ります。
 その後も、遺産相続を巡って、兄弟は揉めることになりました。

夕桜家ある人はとく帰る
(ゆうざくら いえあるひとは とくかえる)

 一茶が、その後の江戸暮らしの中で詠んだ句です。
 夕方になって、帰る家のある人は帰り始めた、うらやましくて、寂しい気持ちだ、という意味です。

 一茶がいかに安らげる家と家族を欲していたのかわかります。

 その後、故郷での父の十三回忌の時に、ようやく弟と和解して、父の財産を受け取ることができました。
 しかし、すぐに故郷で暮らすことはできず、一茶はその後も江戸での暮らしを4年間続けます。

 50歳の頃に一茶は、故郷で暮らすようになりました。
 そして52歳の時にようやく、結婚し、28歳の妻、菊を迎えます。
 これは当時としても、かなりの晩婚です。
 どうやら一茶は、29歳の頃にはすでに白髪になっていて、顔色も悪く、見た目の風貌が良くなかったために、女性はあまりモテなかったようです。

やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
(やせがえる まけるないっさ これにあり)

 これは一茶の有名な句です。
 かわず合戦という、カエルのオス同士が一匹のメスを巡ってお互いを押しのけ合うのを見物し、弱いやせガエルを応援して作った物です。
 弱い者への哀れみを詠んだとされていますが、52歳まで結婚できなかった自らの不遇をやせガエルに重ねていたとも言われています。

 結婚して、二年後に長男、千太郎が生まれましたが、すぐに死んでしまいます。その翌年に長女さとが生まれますが、彼女も二歳になった途端に、亡くなります。
 その後も、次男、三男と生まれますが、赤ん坊の間に次々に亡くなります。
 一茶自身にも不幸が襲いかかり、58歳の頃に、脳卒中で倒れて半身不随になってしまいます。
 さらには、妻さえも病死するという災難に見舞われ、一家は壊滅状態になりました。

 一茶は、その後再婚するも62歳という高齢の上、半身不随になっていたためか、再婚相手とうまくゆかず、たった三ヶ月で離婚。これにもめげずに、64歳の頃に別の女性とまた結婚するも、火事で自宅が燃えて、焼け残った土蔵に住むことになります。
 そのまま、65歳で、この世を去りました。 

個人データ

出自
 宝暦13年(1763年)信濃北部の農家に生まれました。家は、中程度の自作農でありましたが、この土地は痩せた火山灰地であったため、生活はあまり楽ではなかったようです。

家族
 父、祖母とは仲が良かったようですが、継母とその子供の弟と折り合いが悪く、これがために故郷を出る羽目になりました。
 生涯三回結婚し、子供を5人授かるも、最後の妻やをとの間に生まれた娘やた以外は、すべて赤ん坊の間に亡くなっています。

没年
 文政10年(1827年)11月19日に、生活していた土蔵の中で亡くなります。彼は58歳の頃に脳卒中で倒れ、その後、半身不随と言語障害を煩っていて、体調が優れなかったようです。
 そこに火事が襲ってきて、家を焼け出され、ついに力尽きました。

名前・俳号
 本名は小林弥太郎です。
 別号は、菊明・亜堂・雲外・二六庵・俳諧寺などがありますが、最終的には一茶を名乗りました。

女性関係
 初婚は52歳と遅かったです。
 58歳という老年で脳卒中で倒れて半身不随になるも、その後二人の子供をもうけています。
 しかも最後の子供は、没年の一年前、64歳の頃、土蔵で生活していた中で生まれた子というから驚きです。そのバイタリティはかなりのものであったようです。