江戸時代で最も有名な女性俳人、加賀千代女(かがのちよじょ)は、1703年2月(元禄16年)に加賀国松任町(現在の石川県白山市))の表具師、福増屋六兵衛の長女として生まれました。
表具師とは、掛軸、屏風、襖、衝立、額、画帖などの、布や紙などを張ることによって仕立てられた巻物を作る職業です。
家は比較的裕福であったようですが、千代女は生まれつき身体が弱く、健康には優れませんでした。このため、父である六兵衛は娘の健康を願って、地元の松任の松にも縁のある千代女(別名・千代)という俳号を授けたと言われています。
幼い頃の名前は「はつ」と言います。
松尾芭蕉が俳句作りの旅に1689年に出発し、東北・北陸を巡って、その紀行文集「奥の細道」を1702年に出したこともあって、千代女が生まれた時代、土地では、蕉風俳諧が隆盛を見せていました。
彼女は、このような時代背景の元に生まれ、その影響で幼い頃から俳諧に親しんでいました。
12歳の頃に俳人・岸弥左衛門の弟子になります。
17歳の頃、北陸を旅していた蕉門十哲(芭蕉の高弟)の一人に数えられる各務支考(かがみしこう)に出会い、弟子にしてくださいと頼みこみます。
支考は、それならホトトギスを題材にした句を詠んでみよ、と提案したところ、千代女はたくさんの句を夜通し言い続けて、「あたまからふしぎの名人」と、その才能を認められます。
このことから、彼女の名は一気に有名になりました。
18歳で足軽の男性と結婚して、金沢に移り住みます。
しかし、一年ほどで夫が病気で死んでしまい、実家に帰ります。
(千代女は病弱であったため、嫁には行かなかったという説もあります)
52歳で剃髪して尼さんとなり、法名の素園を名乗ります。
そして、養子の六兵衛に家業を譲って、俳諧に専念するようになります。
その9年後に『千代尼句集』を書き上げました。
72歳の時には、与謝蕪村の女性句集『玉藻集』の序文を書きます。
その翌年、73歳という長寿の果てに天に召されました。
千代女は、1700余りの句を残したと言われています。
彼女が作った句の中で、最も有名なのは、朝顔を題材にした以下の作品です。
朝顔につるべ取られてもらい水
江戸時代、女性の仕事は朝、井戸に水くみに行くことから始まりました。
その井戸に朝顔のツタが巻き付いてしまい、取り除くのがかわいそうなので、近所の井戸から水をもらってこよう、という意味です。
作者の心のやさしさが現れています。
出自・家族構成
1703年(元禄16年)に加賀国松任町(現在の石川県白山市))の福増屋六兵衛の娘として生まれました。
18歳で結婚しますが、すぐに夫が病死してしまいます。
子供がいたと言われていますが、この子もすぐに死んでしまい、後に養子をもらっています。ただ、お嫁には行かなかったという説もあり、このあたりのことは、定かではありません。
名前・俳号
本名は「はつ」。千代、千代女は、父から名付けられた俳号です。
この俳号には、娘の長生きを願う想いが込められています。
千代女が俳諧の道に進んだのは、父の勧めでもあったようです。
職業
表具師です。これは掛軸、屏風、襖、衝立、額、画帖などの、布や紙などを張ることによって仕立てられた巻物を作る職業です。
52歳で尼さんになり、家業を譲るまで、千代女は働き続けました。
没年
1775年10月2日(安永4年9月8日))に73歳という長寿の末に亡くなりました。辞世の句として、以下の作品を残しています。
月も見て我はこの世をかしく哉
伝説
有名すぎるために、作者不明の名句が千代女の作品であるとされてしまっている場合があります。子を亡くした時の作品とされる、
とんぼつり今日はどこまで行ったやら
などは、千代女が結婚していたかも定かではないため、彼女の作品であるという確証に欠けています。