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俳句の作り方、歴史、俳人を探求。日本俳句研究会

俳句の作り方

俳句の解釈は自由2012/04/25

 学校の国語の授業だと、文学作品を読ませて、「このシーンでの登場人物の心情を答えなさい」といった読解の問題を出します。
 こういった問題では、正解は決められた一つしかありません。
 このため、私たちは文学には正しい解釈の仕方というのがあり、それ以外の解釈をしてはならない、という固定観念を持たされてしまっています。

 しかし、俳句は「どのように解釈してもOK。自由に鑑賞して良い」ものです。

 むしろ、作者の意図したものとは違う解釈をすることで、作品の輝きが増す場合があります。

岩鼻やここにもひとり月の客

 これは松尾芭蕉の弟子、向井去来の詠んだ句です。
 去来は、「突き出た岩のはしに、みなさんの他にもう一人、私という月見に来ている者がいますよ」という意味で詠みました。
 しかし、師である芭蕉は、「それでは風流にならない。自分のことを詠んだ句にしなさい」と、主語を他人にではなく、自分にした句にすることを勧めました。
 去来は、「その方が句の趣向が十倍は増しますね」と感じ入ったということです。

 このエピソードは、俳句を鑑賞する力の大切さを教えています。

春風や闘志いだきて丘に立つ

 こちらは、大正、昭和時代の俳壇に君臨した高浜虚子の句です。
 師である正岡子規が亡くなった後、俳句から離れて、小説の執筆に没頭していた虚子が、俳句作りを再開した際に詠んだものです。
 当時盛り上がりを見せていた河東碧梧桐の季語や五七五の定型すら無視した、新傾向俳句運動に対する対決の意志が秘められています。

 この句は、このような事実に囚われずに鑑賞した方が、より味わい深い物になります。

 春の甲子園に挑む野球少年や、社会に踏み出す卒業生の意気込みを詠んだ句や、彼らに送る句として読んでも構わないのです。
 新事業を任された会社員の闘志を詠んだものとしても鑑賞できます。

「多義的な読みができるところが、この句の秀句たるゆえんである」

 と俳人、坪内稔典(つぼうちねんてん)が評価しています。