正岡子規は江戸時代後期(天保)から明治の俳句改革に至るまでの約百年間の句を、卑俗陳腐にして見るに堪えない物として、月並み句と呼びました。
月並みの語源は、毎月、決まって開かれる句会のことです。
毎月、新規性もなく、ただ芭蕉の教えを絶対視するだけの陳腐な句を垂れ流しているという批判的な意味が『月並み』には込められていました。
では、この月並み句とは、一体どのような句でしょうか?
書籍『子規は何を葬ったのか―空白の俳句史百年』 によると、子規は月並み句の特徴を次のように語ったそうです。
1・感情に訴えずに知識に訴えようとするもの。
2・陳腐を好み、新奇を嫌うもの。
3・言語のかいし(たるみ)を好み、緊密さを嫌う傾向。
4・使い慣れた狭い範囲の用語になずむもの。
5・俳句界の系統や流派に光栄ありと自信するもの。
参考:書籍『子規は何を葬ったのか』 著者:今泉恂之介
子規が生まれたのは、明治維新の前年である1867年です。
徳川幕府という古い秩序が崩壊し、開国、文明開化という激動の時代に生まれ育った子規は、保守的な俳句界の空気に疑問を感じ、改革を断行する気概に溢れていたのでしょう。
陳腐な句、伝統を絶対視する風潮に並ならぬ嫌悪感を持っていたようです。
だた、彼の挙げた五つの特徴は、やや抽象的で、わかりにくい点があります。
例えば、「感情に訴えずに知識に訴えようとする」ということは、どういうことなのでしょうか?
子規の没後、子規派の俳人たちは雑誌「ホトトギス」上で、月並み俳句の特徴を以下のようにまとめました。
1・駄洒落
2・穿ち
3・謎
4・理知的
5・教訓的
6・厭味(いやみ)
7・小悧巧(こりこう)
8・風流ぶる
9・小主観
10・擬人法等
参考・明治書院「俳諧大辞典」
つまり、「知識に訴えようとする」ということは、具体的に言うと「駄洒落」「穿ち」「謎」「理知的」「厭味」「教訓的」「小利口」といった要素を句に含むということです。
子規は、俳句に思想や理屈を持ち込むことを嫌い、美的感覚に重きを置くべきだと考えていたようです。
江戸時代後期、明治以前の俳句には二種類あり、一つは作者の主観的な美意識を込めた、現在と同じタイプの物。
もう一つは、語呂合わせや掛詞、風刺、穿ち、訓戒、推理といった言葉遊び的なものです。俳句の元となった「俳諧の連歌」の滑稽さ、卑俗的な言葉遊びを残したものだと言えるでしょう。
例えば、桜井梅室の
三木あれど森にはならぬ柳かな
などは、「三つ柳の木があるけれど、森とは呼べないな」という、俳句の形を借りた言葉遊び的なものです。
子規が批判したのは、このような句だったと言えます。
ただ、子規は名句と名高い加賀千代女の
朝顔に釣瓶取られてもらい水
をも俗気の多い駄句として、俳句とは言えないと痛烈に批判しています。
なぜかというと、朝顔を擬人化し、「もらい水」などと自身のやさしさ(思想)を詠みこむところが蛇足であり、本来は、朝顔のツタが釣瓶に巻き付いた様子を、そのまま写生するのが良いと言いました。
私はこの句は、作者の心情を素直に表した余韻溢れる名句だと思うのですが、子規のこの評価を受けてか雑誌『NHK俳句』でも、風流ぶった駄作として、批判されたことがありました。
ただ、千代女の句の世間的評価が高いのは揺るぎない事実です。
つまるところ、俳句の評価というのは個人の価値観に寄るところが大きく、擬人法を使っていたり、風流ぶっているから駄句だとは、一概には言えないということです。
また、「風流ぶる」ということと、「風雅」を探求することも紙一重で、人によってその感じ方は違うでしょう。
松尾芭蕉の一派である蕉門では、風雅とは俳句の美の本質であると言います。
師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。
この二つ究(きはま)り、其の本は一つなり。
その一つといふは、風雅の誠なり
三冊子
松尾芭蕉は、俳句の根本は一つであるとし、それは「風雅の誠」であると言いました。
これを受けて、風雅な句を作ろうと苦心した結果、子規派の俳人から「風流ぶっている」と酷評される月並み句が生まれるという罠にはまることは十分に考えられます。
千代女クラスの俳人でさえそうなるのですから、初心者としては、あまり月並み句になることを恐れず、思うがまま句作に励んでいくのが正解かと思います。