フランス文学者の桑原武夫は、終戦直後の1946年に雑誌『世界』で、『第二芸術―現代俳句について―』を発表しました。
彼は、有名俳人の俳句と、アマチュアの俳句を著者名を伏せて混ぜ合わせ、いろいろな人に読んで貰った上で、優劣の順位を付けさせたのです。
その結果、プロとアマのレベルに明確な差がないことが判明しました。
このことから、小説、演劇を第一芸術とするなら、現代俳句はこれらに劣る「第二芸術」と呼ぶべきだと主張する論を展開したのです。
これに対して、俳句界の良識派と呼ばれた水原秋桜子は
「俳句のことは自身作句して見なければわからぬものである」
といった反論をしました。
すると、桑原氏は、小説家は小説を書いてみなければ小説のことはわからないなどとは言わない、この言葉こそ俳句の近代芸術として命脈が尽きている証拠であると、痛烈なカウンターパンチを放ちました。
「有名俳人の句には、その人の代表句が選ばれていない」
という反論も上がりましたが、有名句を使ってしまえば、すぐにプロの句だとわかってしまうので、これは仕方がなかったのでしょう。
桑原氏は、「『防風のこゝ迄砂に埋もれしと』という虚子の句が、ある鉄道の雑誌にのった『囀や風少しある峠道』や『麦踏むやつめたき風の日のつゞく』より優越しているとはどうしても考えられない」と高浜虚子を名指しして批判しましたが、当時の俳壇で最大の勢力だった高浜虚子らのホトトギス派からは何の反論もありませんでした。
桑原氏の意見を要約すると、
俳句はその流派の宗匠を絶対視して、宗匠の作る句を無条件で有り難がる同好者だけの特殊な世界だということです。
特に松尾芭蕉を神のごとく権威化して、宗匠が自分の党派を作るのに利用しているのは、けしからんとしています。
権威者の作品を、思考停止したまま有り難がっていないで、少しは自分の頭で考えて俳句を評価したり、作句しなければいかんだろう、ということです。
良く誤解されているようですが、『第二芸術論』は俳句を全否定しているのではなく、あくまで終戦直後の俳句界のシステムを否定した論です。
松尾芭蕉の功績については認めるが、それ以後の俳句界は彼を神聖視して祭り上げてしまったのが、間違いだったとしています。
桑原氏は、「芭蕉を捨てなかったためにその後の俳人が堕落した」と述べています。
この点においては、正岡子規の月並み俳句批判と通底するところがあります。
ただ、桑原氏は1987年に文化勲章を受賞するほどの文学者でしたが、俳句のことは素人だと自ら認めており、俳句の性質を良く理解せずに批判してしまった面もあります。
俳句は、実際にプロとアマの境界が接近している世界です。
句会では、メンバーが名前を伏せたまま作品を互選するという方式を採っており、一般会員が指導者を上回る評価を得ることも珍しくありません。
また、正岡子規が、加賀千代女の「朝顔に釣瓶取られてもらい水」を酷評したように、人によって句の評価が大きく異なることでも知られています。
なにより、プロの俳人が常に名句ばかり作っているワケはありません。
小林一茶は約2万句を残したと言われており、これらの中には当然、駄句や月並み句もあったことでしょう。たくさんの句を量産した中から、名句というのは生まれてくるものです。
以上の点からすると、著名俳人のあまり知られていない句とアマチュアの句を混ぜ合わせて競わせ、俳句界の堕落ぶりを批判するという手法には、問題があったと言わざるを得ません。
しかし、俳句界の旧弊とした体質を批判した点には評価できる部分もあり、もし桑原氏が正岡子規のように自らも俳人として俳句界にどっぷり浸かった上で、俳句界のシステムを批判したのであれば、第二の子規として、まったく異なる受け止められ方をしたかも知れません。
俳句・短歌のスタンスに疑問を持っていましたが、先人たちが私と同様な判断をされているのが分り、とても参考になりました。
*作成手法を学び取り入れと過去の模倣になり、体裁は整いますが単なる花丸作品になると思います。
(俳句村のガラバゴス文学)
*著名な歌人でさえ、ご自身の作品数が多すぎて、どんなものを作ったか覚えていないと思うと、愉快です。ですから、その作品は投稿(発表)直後に消耗され消えていきます。それを避けるためには、一切の知識を取り去った白紙に心に刻まれた言葉を書くのが良いような気がします。