『俳句』
これは正岡子規(1867~1902)が大正時代になって初めて唱えた言葉です。
皆さんご存じでしたか?
俳句といえば名の挙げられる、かの有名な松尾芭蕉の作品も、「月は東に日は西に」の与謝蕪村の作品も、江戸時代の当時はまだ「俳句」とは呼ばれていなかったのだそうです。
それでは何と呼ばれていたか? と申しますと、
強いていえば
「発句(ほっく)」「俳諧(はいかい)」
と呼ばれていました。
ただし「発句」=「俳諧」というわけではありません。
それでは、「発句」「俳諧」それぞれの意味と関係を説明しましょう。
もともと「発句」は5-7-5で独立した短い詩だというわけではありませんでした。
そもそも「連歌(連句とも呼びます)」と呼ばれる長い詩の一部で、
その連句の冒頭部分の5-7-5を独立したものが、現在言われている「俳句」です。
当時は、その独立部分を「発句・ほっく」と呼んでいたのだそうです。
発端の句、という意味です。
発句が独立して作られたり観賞されるようになったのは、連歌成立より少し時代が下ります。」
(あとで触れます)
その連歌に滑稽味を加えて人を笑わせることを追求し、連歌に細かく取り決められていたルールを廃したことで、より人々の間で流行したのが「俳諧之連歌(はいかいのれんが)」です。
「俳諧」とは和歌に代表されるような優雅な世界をあえて低俗で身近な世界に落とすことでした。
たとえば、和歌に詠まれる題材「梅」を持ってくるところと、あえて身近な「桜」を詠むことで優雅な世界を身近で親しみやすい世界にする。そこに笑いが起きる。
むりやり現代におきかえてみると、フランス料理を食べる知的なおしゃれな紳士たちが演じるおしゃれなシチエーションを、舞台を大衆居酒屋にして、きわめて庶民的なおじさんたちにパロディで演じてもらったら滑稽ですよね?
当時の作品だとすると、貴族の屋敷で召し上がるような高貴な食卓での様子を、一般庶民のあばら家で食べられるささやかな食事(和歌には決して使われない食材名を配する)に置き換えて句を詠んだりして、そこに笑いを見出したのでした。
この「俳諧」の精神によって作られた作品は室町時代後期から、江戸時代にかけて大流行したのです。
その精神によって作られた作品は、連歌・発句すべてまとめて「俳諧」というジャンル名で呼ばれていました。
その俳諧というジャンルを、滑稽にばかり走るのではなく芸術作品としての質を追求し新たな境地に至らしめたのが、有名な松尾芭蕉だったのです。
彼は寛永21年(1644年)、天下分け目の関ヶ原の戦いから44年たち、徳川の世が安定したころに生まれました。延宝6年頃(1678年)35歳の時に、俳句の師匠となります。その二年後に芭蕉は、門人二十人の歌仙を集めた本『桃青門弟独吟二十歌仙』を出版しました。
現在の俳句の基礎が完成したのは、この頃だと考えられます。