俳句は今でこそ国民文芸と呼ばれて高い価値を認められていますが、江戸時代までは、伝統的な和歌、連歌などに比べて低劣なものとして、見下されていました。
これは俳句の元となった俳諧の連歌が、貴族の文化である連歌を庶民が楽しめるように俗語を取り入れ滑稽な物に改良したものだったことに由来します。
俳諧は和歌、連歌という貴族のハイカルチャーを崩すことによって生まれた、庶民のためのサブカルチャーだったわけです。
室町時代に俳諧の連歌を興隆させた山崎宗鑑は、以下のような作品を残しています。
月に柄をさしたらばよき団扇かな
山崎宗鑑
見事な満月を見上げて、「月に柄を差したら、良い団扇になるだろうなぁ」と感嘆した、というのが句意です。
この句を初めて目にしたとき、おかしくて思わず噴き出してしまいそうになりました。
月を題材にしていることから、風雅な印象も受けますが、その内容は、実に滑稽で庶民的な情動を詠っています。
黎明期の俳諧というのは、このように聞き手を笑わそう、おかしみを伝えようというものだったのですね。
山崎宗鑑とともに俳諧の祖と言われる伊勢神宮の神官、荒木田守武(あらきだ もりたけ)は、1540年(戦国時代)に作成した俳諧連歌『守武千句』の中で、次のように述べています。
さて、はいかいとて、みだりにし、わらはせんとばかりはいかん。花実をそなへ、風流にして、しかも一句ただしく、さて、をかしくあらんやうに、世々の好士のをしへなり。
引用『守武千句』 著者:荒木田守武
意味は、「俳諧だからといって、笑わせようとしてばかりでは駄目だ。詩的な趣きや風流を備え、しかも一句としての格も持ち、その上でおかしくなくてならなない、というのがこれまでの詩歌の道に通じている人たちの教えだ」というものです。
このように、荒木田守武は高い志を持っていましたが、その後、俳諧の傾向はますます俗なものとなり、ただの語呂合わせや、掛け合い的なものが増えていきました。
この結果、俗文芸として、和歌などを嗜む人からは、馬鹿にされてしまうようになったのです。
松尾芭蕉は、すっかり俗となった俳諧に風雅の精神を取り入れ、芸術としての領域にこれを押し上げました。
そんな彼も、この俳諧イコール俗文芸という偏見には苦しめられたようたようです。
芭蕉の高弟である服部土芳(はっとりどほう)の著書『三冊子』には、師(芭蕉)の言葉として、以下のような文が記されています。
俳諧を嫌い、俳諧をいやしむ人あり。ひとかたあるものの上にも、道をしらざる事には、かかる過ちもある事なり。
引用『三冊子』 著者・服部土芳
意味は、「俳諧を嫌い、俳諧を卑しい物として馬鹿にする人がいる。和歌などに通じていたとしても、本当の意味で、その道を知っていないと、このような過ちを犯すこともある」というものです。
ハイカルチャーの傍流として生まれた文化は、その発祥、隆盛期においては、馬鹿にされるのが歴史的な傾向です。
テレビが生まれた際に、映画界はテレビ界のことを見下していましたし、若い女性が書いたケータイ小説がヒットした時は、文壇から「これは小説とは呼べない!」と大変な反発や批判が出たものです。
俳諧もこの例外ではなかったのですね。
俳諧は明治時代になって、明治政府が俳諧師を教導職に登用したことによって、権威を認められ、ハイカルチャーの仲間入りを果たしました。俳諧の発祥から、そうなるまでには、実に400年近い年月が必要だったのです。