まろびつつ蜻蛉に戯むるもみじの手
季語・秋
公園で2~3歳の男の子。頬を赤くしてキャッキャッと蜻蛉を追っている姿はほほえましくて、そして句景でした。そのまんまの者成句です。
高評を賜れますなら幸甚です。
並木研二さん、こんにちは。
これはすごく良い句ですね。
子供を意味する「もみじの手」の比喩も、秋を謳う句にマッチしていると思います。
小さい子供が野原で蜻蛉を夢中で追いかけ回している情景が目に浮かびます。
一読した際、「蜻蛉」「もみじ」と、季語が二つあることに若干、違和感を感じましたが、「もみじの手」は季語ではなく比喩なので、意味を考えれば大丈夫かと思います。
欠点をあげるとすれば、発想はやや陳腐かなと思います。はっとするような驚きや強い印象はあまり受けません。
ただ、とてもわかりやすく、読後感も良いです。
記念に子供の親御さんに送ってあげたら、喜ばれると思います。
自宅近くの公園は親御さんと幼児のたまり場です。いつも母子が遊んでる様を楽しくみています。もう少し、イメージを湧かせて推敲を試みてみます。ご高評をありがとうございました。
かぎろひ様 いつもご高評をありがとうございます。本当に精進する気持ちの励み支えになります。改めて、以下のように「推敲改句」してみました。よろしくお願いいたします。
「乳母車泣く子と遊びとんぼ舞う」
並木研二さん、こんにちは。
「まろびつつ蜻蛉に戯むるもみじの手」
と比べると、推敲された句は対象が乳児であるとハッキリわかります。もみじの手だけだと、もうちょっと大きい幼稚園児くらいの子をイメージします。
乳母車の句は、著者が、乳母車の前で、空を舞うとんぼを立ち止まって見つめている感じがします。
蜻蛉の句は、著者が蜻蛉に手を伸す乳児を見つめている感じがします。
どちらが良いかというと、最初の「まろびつつ蜻蛉に戯むるもみじの手」の方が良かったように思えます。
視点がぶれておらず、蜻蛉と戯れている幼児の姿を伝えたいのだということが、よくわかります。
乳母車の句は、「乳母車」が説明的で、余計な感じがします。不必要な情報を入れたため、伝えたいテーマがぼやけてしまっているように思えました。